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故郷の生い立ちを「浦庄村史」から勉強しました。 古文書は解読することはできませんが 自分なりに解釈して紹介します。 「浦庄村史」は昭和28年に青年団が編纂を決議し、 資料収集・編集・出版と多くの方々の努力によって 昭和40年11月に発行されています。 |
「浦庄」の地名について
律令時代から奈良時代の土地は、全て「国有」であった。
南北朝時代になり土地制度が乱れ、社寺・豪族が荘園を持つようになる。
1276年(建治2年)に「阿波国浦新荘」
1334年(建武2年)に「阿波国浦荘」との荘園があり
【参考】建武2年は足利尊氏が室町幕府を開いた年
この地にさらに「浦庄」という地名があり、このような荘園名が付けれれたと思われる。
その後の変遷
戦国時代になると各地に村を守る掘りや塀をめぐらした「小城」や
土を積み上げた「塁」が各地にできた。
当地区にも「轟城」があり「下浦塁」「上浦塁」「国実塁」等があり
現在の大字の地名が伺える。
豊臣以降の村のあり方
蜂須賀藩政となり家老・郡代の下で「庄屋と5人組」が村を管理していた。
庄屋は現在の大字が単位となって、その中に「5人組」があり、
庄屋は5人が1組となり「組頭庄屋」を置いていた。
このようにして地域の連帯性を持たせていた。
1674年(延宝2年)上浦5人組は
半右衛門・九郎右衛門・所兵衛・乙市・弥五右衛門の名前が残っている。
1680年(延宝8年)の国実の庄屋は庄次右衛門とある。
【参考】 延宝は徳川幕府4代将軍「家綱」の時代
明治の県・村のあり方
明治になり「廃藩置県」により村の制度も変わっていった。 明治2年 蜂須賀茂韶が徳島藩知事?となり、民政掛を東西南北に配置し「郡」に大里長を 明治4年 阿波・淡路を「徳島県」とし、10月に「名東県」と改称された。 明治5年 区制が制定され、郡を「大区」・村を「小区」とした。大区を10区分した。 明治9年 名東県を廃し、「高知県」と合併・淡路は分離され、 明治12年 区制を廃し郡内の町村を合併し、戸長役場が設置される。 明治13年 高知県徳島出張所(支所)が廃止され、「徳島県」となる。 明治22年 戸長役場が「浦庄村役場」となる。 「石井町」となる。 初代町長に浦庄村長であった「井上武雄氏」が就任した。 |
![]() 9代村長・初代町長達 浦庄村役場 |
![]() 5代~8代村長 |
![]() 初代~4代村長 |
村史を編纂された諸先輩方々の並々ならぬ努力に敬意をはらい、感謝いたします。